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32歳で会社を継ぎ、腕時計のワクワクで日仏をつなぐ~タパック株式会社 代表 西田恵氏インタビュー

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タパック株式会社 代表取締役社長 西田恵氏

タパック株式会社 代表取締役社長 西田恵氏


1967年創業の腕時計卸業タパック株式会社。西田恵氏は初代社長である父から会社を受け継いでフランスの腕時計メーカー「Pierre Lannier(ピエール・ラニエ)」の日本総代理店として卸業から販路を拡大、腕時計を通じて日本とフランスをつなぐ。直営店やネット販売、時計用ベルトやフランス雑貨まで手がけている。「ちびまる子ちゃん」で知られる漫画家さくらももこさんとのコラボレーションも実現した、社長業17年目を迎えた西田恵社長にお話を伺った。



■大学のかたわら時計の営業活動に


――お父様が経営していたタパックに入社した経緯は?ほかの進路は考えなかったのですか。


大学在学中に、父の会社で事務のアルバイトをしていました。その後、営業もやってみないかと言われて手伝うようになりました。大学の授業がない時間帯に、先輩の営業の方と百貨店などの取引先へ営業をしていました。私が新規開拓したお客様もいて、やりがいがあり、楽しかったです。


すでに社会人として他の会社で働いていた姉もタパックに入社し、一緒に営業や仕入れをして、しばらくは姉妹で父を手伝っていました。


父は「ほかの会社に就職してもいいよ」と言ってくれましたが、腕時計も好きでしたし、営業の仕事に魅力を感じていたので、ほかにいくことは考えませんでした。


当時はバブルがはじけた直後の就職氷河期でしたし、自分を必要としてくれる会社で働きたいと思っていましたので、タパックで頑張ろう、と決めてそのまま就職させてもらいました。面接免除で(笑)。


同級生が就職活動をしていた時期も私は就職活動は一切せず、時計を売り歩いていましたね。



――営業の仕事が向いていたのでしょうか。


そうですね、営業活動に必要な「人とお話しをする」ということは好きでした。始めたころは学生で、見よう見真似で営業活動をしていくなかで、取引先の方々に営業の「いろは」を教えていただきました。また、私の提案で販売が伸びたときは、達成感があって、また頑張ろう、と励みになりました。その繰り返しでステップアップしていける営業職が好きでした。


営業だけでなく、商品選びができる仕入れも大好きでした。当社が日本総代理店となっているフランスの時計メーカー「Pierre Lannier(ピエール・ラニエ)」には、可愛い商品がたくさんあります。この時計を自分が欲しいか欲しくないか、いくらだったら買うか、というお客様目線で商品を選んで仕入れていました。「日本の顧客向けに色違いを作ってほしい」といった要望にも応えてくれて日本限定の商品も多数発売しました。



■社長は一日にしてならず、日々精進


タパック株式会社 代表取締役社長 西田恵氏



――お父様が「これは売れない」と言っても、「可愛いから絶対売れる!」と西田社長がGOを出して当たった商品もあるそうですね。


それは、ピエール・ラニエのシリーズで文字盤にイルカの絵柄が施された、とても可愛い時計にはじまります。父の目から見れば「時計なのにオモチャみたいだ」という印象だったようですが、私と姉にとっては新鮮で、「イルカ、可愛い!」でしたから。父も半信半疑で、じゃあ試してみようかという感じでしたね。難しいかもしれなくても「とりあえずやってみょう」とチャレンジするタイプなので。


結果的には、色違いも発売するほど大ヒット商品になりました(笑)。



――タパックを継ぐことになった経緯は?


きっかけは、父から「継いでほしい」と言われたことです。すでに姉は他の道へ進んでおり、私が30歳のときでした。当時交際中だった現在の主人にも背中をおされて、やれるだけやってみよう、と引き継ぐことを決めました。


2年ほどかけて簿記の勉強から始め、経営のプロセスをひととおり学びました。とても重要だったのはフランスの仕入先との交渉です。父が社長でいる間に、実務を引き継ぎ、対応のバリエーションを習得していきました。



――お父様はどのような方だったのですか。


厳格な父で、大きな目標も小さな目標も、達成するまでのプロセスも大切にして妥協を許さないタイプでした。自立できるように厳しく教育されていたんだと思います。また、色々なことから護ってもらっていたと思います。自分にも厳しく、よく勉強をする努力家で、尊敬しています。



――お父様からはどのような方針を受け継ぎましたか。不安はありませんでしたか。


経営方針としては、会社として新しいことに積極的に取り組む、ということです。それが結果的にリスクヘッジになっていく、と。また、感謝を忘れず誠実に、という考え方も大切にするように言われました。ですから、お客様はもちろん、スタッフや仕入れ先、関わる方がみんなハッピーでいられるように心がけています。


父が顧問として会社に残ってくれたおかげもあり、実際には完全に独りぼっちになったわけではなく、不安はありませんでした。現在でも父は元気なので相談に乗ってもらっています。



――辞めたいと思うようなことはありませんでしたか。


辞めたいと思ったことはありませんが、社長に就任したころが悩みの多い時期でした。呑気な気質なのですが、無意識のプレッシャーと自分自身への期待値が大きく、力が入りすぎて空回りすることもありました。未熟さゆえに気づけなかったことも多く、ある事案に関して、1か月悩んだ末にそのことを相談したら、私の悩みを瞬時に解消し、「これは経験を積まなければわからないことだ。ははは。」と笑顔みせてくれたことを鮮明に記憶しております。その日を境に、社長は一日にしてならず、日々精進だと思って、少しずつ肩の力を抜くことがでるようになりました。今でも毎日が勉強です。



■さくらももこさんとのコラボレーション実現


社長就任前の1995年頃、フランスにて。西田氏(左から2人目)、先代社長・増本氏(右から2人目)、ピエール・ラニエ社長一家との会食(※)

社長就任前の1995年頃、フランスにて。西田氏(左から2人目)、先代社長・増本氏(右から2人目)、ピエール・ラニエ社長一家との会食(※)



――ピエール・ラニエ社とは家族ぐるみのお付き合いだそうですね。


1987年から日本での独占販売権を所有しております。ピエール・ラニエは創業10年ほどで輸出を開始、アジアの最初の取引先が当社でした。ヒット商品も出ましたし、ずっと良い関係が続いています。先方でも社長が2代目に代替わりし、そのすぐあとに当社も2代目の私が継ぎました。お互い家族経営ということで親近感がありました。


年に3回、打ち合わせや展示会でこちらからフランスに行ったり、日本に来てもらったり、秋には香港の展示会で落ち合うのが例年のパターンです。フランスでは、先方のご家族に食事や観光に連れて行ってもらって、日本に来た時は私の家族と食事に行ったりする仲です。もっとも、今年はコロナ禍の影響で、もっぱらオンラインミーティングです。



――さくらももこさんがピエール・ラニエのファンだったそうですが。


雑誌のエッセイに書いて下さったのを偶然見つけて知りました。取引先の時計店の方に、「さくらももこさんが気に入ってくださってるんですよ」とその記事をお見せしたら、「この方、うちに買いに来るお客様ですよ!」と、おっしゃったのです。後ろ姿しか映っていない写真だったのですが、すぐにさくらさんだとわかったようです。私も驚きました。店頭にないものを取り寄せ注文してくださったり、お店にもよく足を運んでいらしたので熱心なピエール・ラニエのファンとして印象に残っていたようです。



――さくらももこさんとコラボレーション商品はどのように実現したのですか。


ピエール・ラニエのコレクションに、文字盤に貝殻や天然石を使ってモザイク仕立てで動物のモチーフを象っている限定シリーズがあったのですが、それをさくらももこさんが個人的に収集していらしたんです。


1999年に、さくらももこ編集長のムック本が出版されることになり、その中に、さくらさんお気に入りアイテムのゆかりの地に取材に行く、という企画がありました。ピエール・ラニエ社の腕時計がお気に入りということで取材の依頼がありました。アテンドさせてください!と出版社にお願いして、さくらさんとフランスでお会いしたのが最初の出会いです。


フランスではたっぷりと「ピエール・ラニエ愛」を語ってくださいました(笑)。手作りっていうところがいいよね、ほんとに大好きなの、とおっしゃって、時計にまつわる想い出話なども伺いました。


さくらももこさんのエッセイの中のピエール・ラニエのくだりを、父が、ニュアンスが難しい、とか言いながら(笑)、フランス語に訳して、「素敵なファンがついたよ」とピエール・ラニエに送っていましたので、ピエール・ラニエ社の方でも著名な日本の漫画家の方が来る、と大歓迎してくれました。


工場では、さくらさんが知らない時計がたくさんあってすごく喜んで手に取っていたお姿は忘れられません。その夜にホテルで、「コラボとかやってもらえるのかしら」と言っていただき、私は即答で「絶対やります!」と答えていました、ピエールの許可もなく(笑)。翌朝、デザイン絵を頂きました。ムック本のタイトル「富士山」にちなんだ可愛い富士山のデザインでした。



――すごいお話ですね。


当時はまださくらさんの偉大さを十分に認識していませんでしたが、今思うと本当に貴重な体験をさせて頂いて、いろいろなお話を伺ったことは私の中で大きな転機になりました。この仕事をしていて本当に良かったと思いました。



――反響はいかがでしたか。


すごかったです。当時はハガキで受け付けていたのですが、200本の先行予約に対して、1000通ほどの応募がありました。その後の店頭キャンペーンでもお客様がたくさんいらっしゃってすぐ売り切れになってしまい、補充が大変でした。たくさんのお客様が気に入ってくださり、コレクターになっていただいたおかげでピエール・ラニエのファンが増えました(笑)。



――その後もご縁が続いて、新たなコラボもあったのですね。



2017年に実現したコラボレーションウォッチ「地球の子供たち」(現在は販売終了)(※)

2017年に実現したコラボレーションウォッチ「地球の子供たち」(現在は販売終了)(※)


はい、「12星座シリーズ」というのを作りました。12種類の可愛い星座のイメージが時計になって、1つずつ集める方も多かったです。最近ですと、2017年にピエール・ラニエが40周年、「ちびまる子ちゃん」連載30周年、関係ないですけど当社タパックが50周年(笑)とちょうど重なって、ピエールと「何かやれるといいね」という話になりまして。さくらさんにお願いしたらご快諾いただき、デザインを2つ起こしてくださいました。「地球の子供たち」と「干支」です。どちらもさくらさんのイラストのタッチにほのぼのできる腕時計になりました。「地球の子供たち」は今年、クロックとして再度製品化されました。



■直営店でB to Cビジネスを展開。


タパック株式会社 代表取締役社長 西田恵氏



――その後、事業を拡大されて今では雑貨も扱っていらっしゃいますね。


事業の拡大として、販路と商品に分けられます。


販路は、既存のB to Bの他にB to Cを広げることでした。ECも含めて。


商品は、時計用の革ベルトを10年以上前から強化して伸ばしてきました。


ピエール・ラニエの時計はベルトを選べるというスタイルで販売していますが、お客様から別メーカーの時計にも使えるのかという質問が多く、ベルトを替えて差し上げるとすごく喜ばれたので、ベルトのみも取り扱うようになりました。


さらに新しい商材をどうするか考えたときに「フランス」というキーワードを軸に時計以外の雑貨も展開してみようと思いまして。フランスらしいカラフルでスタイリッシュな物を選んでいます。



――直営店もオープンされました。


私の代になって新たにスタートしたことのひとつとしてB to Cの売り場を設けたことです。それまではB to Bで、卸会社として主に時計店に販売してきましたが、私は直接お客様との接点がある環境を積極的に求めました。そういった場があれば、どんなものが求められているのか、より理解できると考えています。


2007年にプランタン銀座でポップアップでアクセサリー売場でイベントをやらせていただいたのがきっかけで、それが常設になりました。プランタンの改装もあって移転することになり、2014年に銀座ファイブに「ピエール・ラニエ銀座店」として出店しました。


なぜ直営店かというと、やはり、ピエール・ラニエのフルコレクションを見ていただきたいというのと、ポップアップストアで、楽しみながらデザインや色を選んで買っていただいたお客様に、継続的にそういった場所をご提供したい、という思いがあったからです。お客様との窓口として直接対応できる場所も欲しかった。長いことピエール・ラニエ日本総代理店をやっていますから、古い型のピエール・ラニエの時計のお修理のご相談も受けつけられるようになりました。


私自身、よくお店に行きます。スタッフのシフトが合わないときなど、ヘルプ要員として行くときも(笑)。


実際に行くと、お客様の声はもちろんですが、お店に立つスタッフの気持ちがわかりますね。百聞は一見に如かずですから、自分がお店に立っていると、報告を聞くよりリアルに感じ取れます。これからも店番は続けていきます。



――現在展開していることをお聞かせください。


ブランドの垣根をこえて、皆様が持っている大切な時計のベルト交換をさせて頂ければと考え、ピエール・ラニエとは別途に、ベルトのブランド「FLANEUR/フラヌール」を今年スタートしました。フランスや日本、中国のメーカーから仕入れています。革の素材感と色、質感など、使いやすさを基準に選んでいます。



■その場その時に、全力で


タパック株式会社 代表取締役社長 西田恵氏


――社長として一番大変な時期はいつでしたか。


その場その時、つねに全力で取り組んでいるので、振り返って「ちょっと大変だったかな」と思うことはありますが、その時に大変だと思ったことはありません。多分、気づいていないんです(笑)。


ただ、さすがに今春のコロナ禍の自粛期間は大変でした。スタッフの安全確保と、見通しのたたない中での業績構築の対策に悩みました。私自身が未熟な状態から経営に取り組んできましたから、今でもスタッフから教えられることも多いんですね。コロナ対策もチームのみんなと相談しながら決定していきました。いつもスタッフに助けられて大変なことも乗り越えているんだな、と痛感しました。



――コロナ禍によって社会が変わると言われています。今後の事業展開はどうお考えですか。


コロナ禍で消費の雰囲気が変わってきてしまっています。大変なのは今からだと思います。かつて業界は大きなインバウンド効果を受けていたのですが、コロナ禍によってそれが無い中、どう販売を伸ばしていくかということが課題だと思います。


当社としては、以前からいろいろ考えていたことがあります。腕時計や革ベルト以外にもフランスのスタイリッシュな雑貨をご提案できればと思います。


オンラインとオフラインは両方とも大切です。今はオンラインでお買い物ができるので、モノは日本にいても購入できますよね。でも、フランスに行けないけどフランスで買い物をしている雰囲気を味わいたい、というニーズにお応えできる場を作れるかもしれない。お買い物って、ワクワク感、エンターテインメント性が重要ですから、売っている側も楽しまなければいけないと思います。楽しい演出など考えて、人々の心を潤していきたいと思います。消費が低迷していると言っても、何かできることはあると思っています。



――障壁となるものはありますか?


働き方改革もあって外出が減り、腕時計は不要という方もいらっしゃいますし、スマートウォッチの人気もあります。そうしたライフスタイルが壁でしょうか。それでも贈り物や記念日に、という需要は多いですし、当社でも時計の刻印サービスなどをしております。この部分はもっとフレキシブルに対応できるようにしていきたいと思っています。


できることをやるしかないと思っています。理想はいろいろありますが、健康で楽しくいければ。



本社オフィスにて。時計ベルトで作成したエッフェル塔の額と。

本社オフィスにて。時計ベルトで作成したエッフェル塔の額と。





初代から受け継ぐだけでなく、時代の変化に合う新しいステージを開拓し、明るく前向きに進む西田さん。コロナ禍を乗り越え、どんなビジネスを展開していくか、今後が楽しみです。






プロフィール


西田 恵(にしだ めぐみ)

タパック株式会社 代表取締役社長

東京都出身。清泉女子大学卒業後、タパック株式会社入社。

2004年6月、代表に就任。


タパック株式会社[外部リンク]





編集・文・撮影:アスクル「みんなの仕事場」運営事務局(※印の画像を除く)
取材日:2020年6月24日

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